銀閣寺の歴史と足利義政の東山文化・東山御物について
2019.04.16
京都東山の通称銀閣寺は正式名称を慈照禅寺といいます。
慈照禅寺は京都を代表する東山文化の地でもあります。
今回は少しアカデミックな内容になります。
銀閣寺の歴史と足利義政の東山文化について紹介します。
足利義政のお寺慈照寺
足利義政は1436年、足利六代将軍足利義教の五男として生まれます。
兄の足利義勝の早世に伴い1449年、13歳で将軍継承します。
13歳で諸大名を統率するのは不可能で、補佐に委ねる政権運営でした。
義政は当初積極的な政権運営を行っていましたが、その限界を感じます。
しかし、時代は沸騰期を迎えていきました。
やがて足利義政は後継者問題にも悩まされます。
政権運営・後継者問題も義政にとって煩わしくなりました。
1482年には足利義政は慈照寺の前身の東山山荘の建築を開始します。
祖父足利義満の鹿苑寺金閣を構想の基礎にした東山銀閣を建築します。
1486年には、政権運営から引退することを表明しました。
1490年、54歳にして没しますが、銀閣はまだ完成していませんでした。
足利義政の慈照寺銀閣はこのような状況の中で建立されました。
足利義政の東山文化
足利義政といえば東山文化と東山御物です。
足利義政の頃、諸国はいわゆる応仁の乱で荒廃します。
しかし、その中でも足利義政は東山文化を築き上げました。
今も昔も、文化を作るには莫大な費用がかかります。
足利義政の頃は戦乱の時代です。
しかし、1451年に足利義政は勘合貿易を復活させています。
その収入が舶来品購入や文化人を抱える費用になりました。
足利義政の東山文化は勘合貿易に支えられました。
足利義政と東山御物と慈照寺
そんな足利義政の収蔵品を後世、東山御物と呼びました。
実は、この東山御物は足利義政の収蔵品ばかりではありません。
祖父である足利義満からの足利家の収蔵品が東山御物にはあります。
そして、東山御物は足利義政が足利家最後の所有者でした。
この後、足利将軍家は本格的に衰退していきます。
ちなみに東山御物は正式には‘ひがしやまごもつ’と呼びます。
御物を‘ぎょぶつ’と呼ぶのは正倉院御物と一緒で皇室所有の物です。
御物を‘ごもつ’と呼ぶのはその皇室の臣下の物なので区別されます。
東山文化は奥の深い世界があります。
また茶の湯にも繋がる世界がありますので、改めて紹介します。
銀閣寺の歴史と足利義政の東山文化と東山御物について紹介しました。