金戒光明寺が新選組・会津藩にゆかりの地になった理由

2019.04.20

京都黒谷の金戒光明寺。
浄土宗の寺院であり浄土宗七大本山の一つです。

黒谷金戒光明寺は新選組・会津藩ゆかりの地です。
時代の沸騰期、黒谷に佐幕派の拠点ができた理由があります。
金戒光明寺が新選組・会津藩にゆかりの地になった理由を紹介します


黒谷金戒光明寺ゆかりの徳川家康


黒谷金戒光明寺は浄土宗の寺院です。
浄土宗といえば、徳川家康が縁のある人物の一人です。

徳川家康の家は浄土宗の家になります。
そして家康の5代前の先祖の兄弟が浄土真宗のトップになっています。
存牛という僧侶です。
徳川家康は天下を目指す際に、存牛を意識したでしょう。
この時代、自分に流れる血への信仰が非常に強くありました。

本能寺の変の祭、堺に50人ばかりの供回りと一緒にいた徳川家康。
彼は本能寺の変の話を聞き、知恩院にて腹を切ると言い放ちました。

知恩院も浄土宗の本山の一つです。
晩年は家康は江戸に浄土宗の増上寺を建立するなど浄土宗との関係を綿密にしま
す。

家康は京都には防衛拠点として知恩院と金戒光明寺を城郭化します。
京都に一大事があれば、この二大寺院を防衛拠点を考えていました。

黒谷金戒光明寺に赴任した会津藩


江戸幕府は代々、黒谷金戒光明寺を手厚く保護します。
その背景には家康の思惑がありましたが、その縁は続きます。

幕末の沸騰期、京の都は諸国の浪士により治安が悪化します。
また、藩幕府派の諸藩が京を中心に活躍していました。

それに対して、会津藩は江戸幕府から命令での治安維持の役割を担います。
京都守護職ですね。
1000名の藩士を常駐させて、京の都の治安維持を担います。
その際に江戸幕府から与えられた拠点が黒谷金戒光明寺でした。
金戒光明寺は家康の考えで守りやすい施設となっています。
御所にも近い防衛拠点ということで会津藩の治安維持の拠点になりました。


黒谷金戒光明寺と新選組の関係


黒谷金戒光明寺は新選組ゆかりの地です。
新選組は当初東国の浪士たちの集まりでした。
西国の浪士が長州藩を盟主にしたのに対し、新選組は会津藩に関係していきます。


西国の浪士は倒幕・東国の浪士は佐幕。


会津藩の拠点黒谷金戒光明寺は新選組が出入りをするようになります。
新選組の身分は会津藩お預かりという身分です。
金戒光明寺では新選組幹部が毎日のように会津藩重役と話し合いをしていたでしょう。

金戒光明寺を見て、新選組は何を感じたのでしょうか。
後に新選組は西本願寺を駐屯地としたこともありました。

金戒光明寺が新選組・会津藩の縁の場所になった理由を紹介しました。




お知らせ の一覧に戻る